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【書評】辛い時に心が救われる本「嫌われる勇気」!厳しい状況に置かれているサラリーマンは必読!

こんにちは
ぽんすけ(@info_simplify)です

「この本になぜ早く出会えなかったのか」
と衝撃を受けた一冊

かなり前から本は購入していたのですが
何度も読もうと思って
最初の章で挫折してました

あまり好みの文体ではなかったから
読み進められなかったのかもしれません

ただ最後まで読んで本当に出会ってよかった一冊だと感じました

辛い、厳しい状況に置かれているのは
全ては対人関係の問題

特にこの一説が一番印象に残りました

他者の評価を気にかけず
他者から嫌われることを怖れず
承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり
自分の生き方を貫くことはできない
つまり、自由になれない

おすすめの一冊です!
それではご紹介!

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第1夜 トラウマを否定せよ

なぜ「人は変われる」なのか

アドラー心理学は過去の原因ではなく今の目的を考える


トラウマは存在しない

自分の経験によって決定されるのではなく
経験に与える意味によって自らを決定する


あなたはこのままでいいのか

大切なのはなにが与えられているかではなく
与えられたものをどう使うかである


人は常に変わらないという決心をしている

新しいライフスタイルを選んでしまったら新しい自分になにが起きるかも分からないし
目の前の出来事にどう対処すればいいかもわからない
未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになる
もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているのかもしれない
つまり人は、色々と不満はあったとしても
「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです


あなたの人生は「いま、ここ」で決まる

ライフスタイルを変えれば
世界との関わり方、そして行動までもが変わらざるをえなくなります
この「変わらざるを得ない」というところを忘れないでください


第2夜 すべての悩みは対人関係

なぜ自分のことが嫌いなのか

対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえない
対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし
あなたも他の誰かを傷つけている


すべての悩みは「対人関係の悩み」である

アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません
どんな種類の悩みであれ
そこには必ず他者の影が介在しています


劣等感は、主観的な思い込み

問題は、わたしがどのような意味付けをほどこすか
どのような価値を与えるか


自分の身長に劣等感を感じていたのは、あくまでも他者との比較
つまりは対人関係の中で生まれた
主観的な「劣等感」
もしも比べるべき他者が存在しなければ
わたしは自分の身長が低いなどと思いもしなかった
それは客観視な「劣等感」ではなく
主観的な「劣等感」であることを理解してください

われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」


言い訳としての劣等コンプレックス

劣等感も使い方さえ間違えなければ
努力や成長の促進剤となる
自らの劣等感を取り除くべく、より前進しようとする
現状に満足することなく、一歩でも先に進もうとする
もっと幸せになろうとする
こうした劣等感のあり方には、なんの問題もありません


人生は他者との競争ではない

健全な劣等感とは
他者との比較の中で生まれるのではなく
「理想の自分」との比較から生まれる

すべての人間は「同じではないけれど対等」
子供を大人扱いするのではなく、子供扱いするのでもなく
いわば「人間扱い」する
自分と同じひとりの人間として、真摯に向かい合うのです
われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない
いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ
価値があるのです


お前の顔を気にしているのはお前だけ

対人関係の軸に「競争」があると
人は対人関係の悩みから逃れられず
不幸から逃れることができない
それは、競争の先には勝者と敗者がいるから
競争や勝ち負けを意識すると
必然的に生まれてくるのが劣等感
常に自分と他者を引き比べ、あの人には勝った負けたと考えている
その結果、他者全般のことを「敵」だと見なすようになる

競争の恐ろしさは
たとえ敗者にならずとも
たとえ勝ち続けていようとも
競争のなかに身を置いている人は心の休まる暇がない
社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは
彼らが競争に生きているから

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば
世界の見え方はまったく違ったものになります


権力争いから復讐へ

もしも面罵されたなら
その人の隠し持つ「目的」を考える
相手の言動によって本気で腹が立ったときには
相手が「権力争い」を挑んできたのだと考える
勝つことによって、自らの力を証明したいのです

ここであなたが怒ってしまえば
相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します
いかなる挑発にも乗ってはいけません

※アンガーマネジメントに類似している
www.pnske.com


仮に言い争いを制し、相手が引き下がったとしてもここで終わらない
争いに敗れた人は「復讐」の段階に入るから


非を認めることは「負け」じゃない

相手が戦いを挑んできたら
そしてそれざ権力争いだと察知したら
いち早く争いから降りる

怒りはしょせん目的をかなえるための手段であり道具
怒りを使わないコミュニケーションは可能
言葉によるコミュニケーション、論理の言葉を信じる

人は対人関係のなかで「私は正しいのだ」と確信した瞬間
すでに権力争いに足を踏み入れている
あなたが正しいと思うのなら
他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話

誤りを認めること
謝罪の言葉を述べること
権力争いから降りること
これらはいずれも「負け」ではありません
優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではない


第3夜 他者の課題を切り捨てる

「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

アドラー心理学では、他者からの承認を否定します
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」
他者の期待など満たす必要はない
他者からの承認を求め
他者からの評価ばかり気にしていると
最終的には他者の人生を生きることになる
承認されることを願うあまり
他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」
相手が自分の思う通りに動いてくれなくても怒ってはいけません
それが当たり前なのです

仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら
その仕事は相当に苦しいものになるでしょう
なぜなら、いつも他者の視線を気にして
他者からの評価に怯え
自分が「わたし」であることを抑えているわけですから


「課題の分離」とはなにか

われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から
自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと
あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる

誰の課題かを見分ける方法は
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
を考える

アドラー心理学は放任主義の推奨ではない
子供の勉強についていえば
それが本人の課題であることを伝え
もしも本人が勉強したいと思った時はいつでも援助をする用意があることを伝えておく
子供の課題に土足で踏み込むことはしない
頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけない


対人関係の悩みを一気に解消する方法

例えば会社の対人関係に悩んでいる人がいたとします
話がまったく通じない上司がいて
事あるごとに怒鳴りつけてくる
どんなに頑張っても認めてくれず
話さえまともに聞いてくれない
しかし、その上司から認めてもらうことは、あなたが最優先で考えるべき「仕事」なのでしょうか?
仕事とは、社内の人間から気に入られることではないはずです
「あの上司がいるから、仕事ができない」これは完全な原因論
そうではなく「仕事をしたくないから、嫌な上司を作り出す」
あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司を作り出す」これは目的論


ほんとうの自由とはなにか

他者の評価を気にかけず
他者から嫌われることを怖れず
承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり
自分の生き方を貫くことはできない
つまり、自由になれない

※わざわざ嫌われるような生き方をしろとか
悪行を働けといっているのではありません

課題の分離
あなたのことをよく思わない人がいても
それはあなたの課題ではない
「自分のことを好きになるべき」
「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」
と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想



第4夜 世界の中心はどこにあるか

なぜ「わたし」にしか関心がないのか

「課題の分離」ができておず
承認欲求にとらわれている人もまた
きわめて自己中心的

承認欲求の内実は
他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?
つまりどれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?
こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて
実際には自分のことしか見ていない
他者への関心を失い「わたし」にしか関心がない
すなわち、自己中心的


あなたは世界の中心ではない

「わたし」は世界の中心に君臨しているのではない
あくまでも共同体の一員であり、全体の一部

自分にしか関心を持たない人は
自分が世界の中心にいると考えてしまう
こうした人たちにとっての他者とは
「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかない
みんな私のために働くべき存在であり
私の気持ちを最優先に考えるべきだと
半ば本気で思っている


より大きな共同体の声を聴け

あなたが学生で「学校」という共同体を絶対視していたとします
学校こそがすべてであり、私は学校があるからこそ「わたし」なのだ
それ以外の「わたし」などありえない
しかし、共同体の中でなんらかのトラブルに遭遇することはあるわけです
いじめや、友達ができない、授業についていけない、馴染めない
学校という共同体に対して「ここにいてもいいんだ」という所属感を持てない可能性もある

このとき、学校こそがすべてだと思っていると
あなたはどこにも所属感を持てないことになる
そしてより小さな共同体、たとえば家庭のなかに逃げ込み
そこに引き込まったり、場合によっては家庭内暴力などに走る
そうすることによってどうにか所属感を得ようとする

しかし注目すべきは
「もっと別の共同体があること」
「もっと大きな共同体があること」

学校の外には、もっと大きな世界が広がっています
そして我々は誰しも、その世界の一員です
もしも学校に居場所がないなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい

ひとたび世界の大きさを知ってしまえば
自分が学校に感じていた苦しみが
「コップのなかの嵐」であったことが分かるでしょう
コップの外に出てしまえば
吹き荒れていた嵐もそよ風に変わります

自分の部屋に閉じこもるのは
コップの中にとどまったまま
小さなシェルターに避難しているようなもの
つかの間の雨宿りはできても
嵐が収まることはありません

覚えて欲しい行動原則
人間関係の中で困難にぶつかったとき
出口が見えなくなってしまったとき
まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」

仮に教師が絶対的な権力者として振る舞っていたとしましょう
しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンス
「人間社会」という共同体で考えるなら
あなたも教師も対応の「人間」
理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわない

もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら
そんな関係など最初から結ぶ必要などない

関係が崩れることだけを恐れて生きるのは
他社のために生きる、不自由な生き方です


叱ってはいけない、ほめてもいけない

劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識


「勇気づけ」というアプローチ

褒めてもらうことに喜びを感じているとすれば
それは縦の関係に従属し
「自分には能力がない」と認めているのと同じ
褒めることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」

褒めてもらうことが目的になってしまうと
他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる


自分には価値があると思えるために

人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えた時にこそ
自らの価値を実感できる
共同体、つまり他者に働きかけ
「わたしは誰かの役に立っている」と思えること
他者から「よい」と評価されるのではなく
自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることで、われわれは自らの価値を実感することができる


第5夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

自己肯定ではなく、自己受容

自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と
自らに暗示をかけることです
これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり
自らに嘘をつく生き方であるとも言えます

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら
その「できない自分」をありのままに受け入れ
できるようになるべく、前に進んでいくことです
自らに嘘をつくものではありません

もっと分かりやすくいえば
60点の自分に
「今回はたまたま運が悪かっただけで本当の自分は100点なんだ」
と言い聞かせるのが自己肯定

60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で
「100点に近づくにはどうしたらいいか」
を考えるのが自己受容

欠点のない人間などいない
人は誰しも「向上したいと思う状況」にいる

「変えられるもの」と「変えられないもの」をを見極める
「何が与えられているか」について、変えることはできません
「与えられたものをどう使うか」については
自分の力によって変えていくことができる

だったら「変えられないもの」に注目するのではなく
「変えられるもの」に注目するしかない


信用と信頼は何が違うのか

あきらめという言葉には、元来「明らかに見る」という意味があります
物事の心理を見定めること
それが「あきらめ」なのです
悲観的でもなんでもない

対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立している
信頼とは、他社を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと


仕事の本質は、他者への貢献

アドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを
「社会に過度に適応した人」であるとして
警鐘を鳴らしているくらいです

「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ
自らの価値を実感することができる
つまり他者貢献とは「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく
むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの


ワーカホリックは人生の嘘

ワーカホリックの人
この人達もまた、明らかに人生の調和を欠いてます
ワーカホリックの方々は、人生の特定の側面だけに注目しています


人はいま、この瞬間から幸せになることができる

幸福とは、貢献感である


普通であることの勇気

なぜ「特別」になる必要があるのか?
それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう
だからこそ「特別によくある」ことがくじかれたとき
「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまう

普通を拒絶するあなたは
おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義だととらえているのでしょう
普通であることは無能なのではありません
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです


ダンスするように生きる

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那
ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいい


無意味な人生に「意味」を与えよ

一般的な人生の意味はない
人生の意味は、あなた自分自身が与えるものだ